kindle, 手ぶら, iPhone, 禁酒,ウォーキング,禁煙,断酒,ダイエット,断酒,ノンアルコール,Evernote,ライフハック,読書.音声入力

徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

6月28日金曜日、晴れ

仕事上の散文がやたらと執拗に、無駄に構造化されるようになったのは、日米の貿易戦争に負けた90年代半ば以降のことで、いわゆるクリティカル・シンキングとか、MECE (Mutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの略)とか、よくわからないけどマッキンゼーみたいな会社で使われているアングロサクソンのコミュ法が、日本の中流階級のサラリーマンにまで浸透していった。入社したばかりの頃は、少なくとも私は、会社でクリティカル・シンキングやMECEについて学んだ記憶は全くない。私が当時新入社員研修で学んだのは、川喜田二郎のKJ法のようなデータをうまくまとめる方法論でしかなく、90年代後半から2000年代にかけて、クリティカル・シンキングやロジカル・シンキングのようなものが日本のサラリーマンにも普及したのではないかと思う。

日本のサラリーマンは、それまでは本当に何のスキルも持ってなくても、それなりの大学さえ出ていれば、飲み会でノリノリにしていれば、つまり朱子学カルトのルール(元気・エッチ・謙虚)さえ抑えておけば、そこから先はほとんどオートマティックに課長くらいまで無条件で出世できたのだけど、平成元年から消費税という名の人頭税が始まって、じわじわと会社も国も低成長になったので、ゼネラリストでスキルのない、行き詰ってしまったサラリーマンに、いわば「情報商材」のように植え込まれたのが、ロジカルシンキングとかMECEで、実はこんなチンケなもので、イノベーションは生まれるわけがない。

きっと、まさに世界に出ていかんとする60年代のソニーやホンダが若く元気だった頃には、当然パワポもなかったし、製品企画を、MECEに気をつけながら役員にプレゼンするなんてことも、丸でなかった。クリティカル・シンキングとか、MECEは要するにコミュのルールでしかないのに、団塊世代が課長から先の出世競争を勝ち抜く欧米流ツールと早とちりして90年代の終わりくらいからまことしやかに流通し始め、その方法論が先行して肝心の面白い中身(コンテンツ)を置き去りにしてしまった。ちなみにサラリーマンが毎日大きな鞄を持つようになったのもこの頃からで、鞄とクリティカルシンキングは実は兄弟のようなものなのではないかと思ってしまう。

大学の時に、マーケティング専攻の商学部の友人がいて、彼がやたらとマーケティングかぶれしていて、サークルの説明ビラとかオリエン資料などもなんでもプレゼン映えするように、形だけ構造的につくっていて、当時はそういう手法自体が新しくて、私は矢鱈と圧倒されていたのだけど、よく考えれば新入生はプレゼン・テクニックなんかでサークルに入ろうとはしないわけで、それこそ雰囲気とか先輩の見た目(美人の先輩がどれだけたくさんいるか)とかみんなの喋り方、飲み会の盛り上がり方のような一次情報をみて、ロジカルにではなく、なんとなく決める。ビジネスだって、サークルの新入生とたいして変わらなくて、実は顧客が購買意思決定をするときは、ロジカルになんて丸で考えていない。

下手に構造化されたロジックをビジネスに持ち込んでしまうと、大切なコンテンツの方が死んでしまう。その商学部の友人は、結局マーケティングの仕事には就けなくて、当時はまだ余力のあった百貨店業界に入ったけど、その後彼がどうしているのかはわからない。その彼が就職した百貨店が最近になってお中元の送るタイミングをものすごく早く送ってしまった事故がニュースになっていたけれどお中元がこれだけなくなってしまったのだから百貨店が今も元気に残っているわけはない。中産階級がものを贈り合う習慣、それそのものが消滅している。

マーケティングという構造的な体系を考えなしに取り入れると、却って人の心は離れていってしまう。大阪のG20スピーチをみていると、安倍総理は明らかにプロンプターで原稿を読んでいるけど、プロンプターに映し出されている原稿は、米国の真似をして日本の「有能な」スピーチライターが精緻に構造化した原稿だと思うけど、はっきり言って、そういうきれいに整理された散文は、誰にも聞こえていない。何を話していたか、スピーチが終わってもう数秒後から完全に、この世界から消えている。世界はおしなべてスーパーフラット化しており私のこのブログもG20の総理大臣のスピーチも、池上彰の解説も実は大差なくコモディティ、無価値なのである。

安倍総理と同じ世襲経営者の某自動車会社の社長が、米国大学の卒業式でスピーチしたけれど、これも恐らくスピーチライター的な「ディレクション」が入っている。だから少なくとも私にはとても退屈だ。

この「ディレクションが入っているもの」が、何もかも退屈なものに思えるようになってきた。文章で言えば、作家が何遍も見直した上に編集や校閲の手が幾重にも入った文章は、強い「ディレクション」が入っている。時間もコストもかかっている。「ディレクション」が入るということは、文字通り「方向」があり、スピーチ原稿にせよパワポにせよ、とことんリニアで、美しくリニアになってはじめて、「ディレクター」は仕事をしたと見做される。

しかし「ディレクション」のにおいのするあらゆる創造物が、退屈で喜ばれないものに反転しつつある気がする。私が最近お気に入りの作家である赤松利市氏がこの前、彼のTwitterで、全くプロットを作らないと言っていたけれどプロットありきではない、浅草の漫喫で夜な夜な紡ぎ出される即興性にこそ、いまどきのリアリティがあるような気もする。

何らかのディレクションの下にあるものとは、受け手にとっては要はよくできた二次情報でしかない。カンパケである。どんなにお金をかけたり人手をかけたりしたものでも、二次情報はつまらない。そこに自分がいないからである。浦安ディズニーランドなども、結局のところ高価な「ディレクターズ」による二次情報の集積でしかない。だから記憶に残るのは、対価を払ったアトラクションのことではなく、その時一緒にいた人による、無料の、他愛もない一次情報だったりする。

何のディレクションも感じない分散型のテクストの方が、受け手の身体に近いところにあるので、読んでいるのだけれど聞いているような気になる。この文章もほとんどが音声入力によるかなり即興的なテクストである。

認識とは行動における不動点、つまりリアルな行動・体験を通じて様々に移り変わり行く環境のなかで、観測しているこちら側の「動かない点」の存在こそが認識の存在なのだけど、その点がきちんと存在する情報こそが一次情報で、不動点をリアルに認識できる情報が価値のある一次情報である。誰かのディレクションが完璧に加わっている高コストな情報は、受け手には実は何の不動点もない。だからものすごく構造化されシンプリファイされた広告のボディ・コピーなどよりも、音声入力によってだらだらと書き起こされたテクストの方が、もしかすると読み手にとっては、リアリティが高いような気もする。