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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

「みんな」の喪失

最近特に感じるのは、朱子学カルト社会に急速に「長幼の序」がなくなってきていることで、年下が年上を丸で尊敬してないところ。実際、「ものつくりのこだわり」とか上から聞かされても、「はぁ? なに言っちゃってんの?」としか思われない。

上司も部下に目をかけなくなった。尊敬されてないことがわかってるから、放り投げている。

日本の企業とは、要は共同身体性によって維持されてきたので、共同身体性が失われると、途端にばらばらとなり、「みんな」のリアリティを喪う。

共同身体性とは、意味もなくとにかく毎日遅くまで会社に残業と称してだらだら居続けることや、仕事が終わってから特に目的もなく毎日のように酒を飲むことや、酒を飲んだ後にカラオケに行って歌を歌うことなどを通じた身体感覚の一体感である。それが経団連による「はたらきかた革命」によってなくなった。首都圏も鉄道の利用状況を見ると人々は明らかに帰宅時間が早まっている。

共同身体性がなくなると、共同体感覚は当然なくなる。「みんな」のリアリティがなくなるのである。「みんな」が誰のことだか、いつのまにか、全然わからなくなってしまった。

政党政治においても「みんなの党」が出来たのは2009年、2013年のピークには衆参合わせて36名の国会議員を持つ政党になった。まだこの頃には政党名に「みんな」をくっつけることが少なくともイケていると考えることができたのである。しかし震災やソーシャルメディアの普及が進むにつれて「みんな」は悉く分断され、一時期は政治のキャスティングボードを握っていた「みんなの党」は、急速に力を失って、2014年11月に解散。

私たちは2010年代の半ばにはもう「みんな」とは誰のことなのか、全然わからなくなっていた。だから誰も「みんな」という言葉を使わなくなってしまった。「みんな」や「うち」という言葉が虚しくなってきた。

そしてそこからは堰を切ったように、「独り」の時代になってきた。「みんな」が偽善ならば、「独り」は独善である。共同身体性に基づく偽善が通用せず、ばらばらになった人々はひたすら独りよがりになりつつある。

アルコールの飲まれ方も、バブルの頃はダンバー数である150人規模の宴会もたくさんあったけど、それがだんだんしょぼくなり、「みんな」が信頼できなくなると、アルコールは独りで飲むものに変わってしまった。

例えば「フラリーマン」と呼ばれる会社員が、コンビニでストロング系チューハイを買って公園や駅のベンチで独りで酒を飲んだりしている。30分飲み放題なんていう飲食店チェーンもある。

アルコールは「みんな」の共同身体性を確認する麻薬から、「独り」の寂しさを紛らす麻薬へと変質しつつある。アルコールに限らず、あらゆる麻薬は、独りでこそこそ服用し始めると、依存性がググッと高まると言われる。

「みんな」がよくわからない→「ひとり」が辛いと短絡して、そこに「独り酒」のアルコールが深く入り込む。しかしよく考えてみて欲しい。最初から「みんな」なんてなかったのではないか。最初から「個」しかないのだとしたら?

アルコールをやめると、「みんな」の幻想を植えつけられる前の「個」の自分、「個」の身体性、「個」の時間を回復できる。分断の時代こそ、アルコールを飲まないことが有効なのだ。