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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

30年という時間の残酷さについて

30年という時間の経過は、当たり前だが、10年や20年の経過とは別格だなと思う。例えば6/4は天安門事件からちょうど30年が経ったので、「中国は相変わらず民主化されてない!」と日本では上から目線で(日本なぞ単なる74年間の米軍統治下であるのを棚に上げて)大騒ぎしていたけど、それをみて思ったのは、あの当時中国のエリート学生が信じていた民主制というものは、今となっては、世界規模で全然正義ではなくなっちゃっていることの虚しさ、についてである。

彼らの多くは数千人という規模で天安門事件を生き延びて海外に逃亡したんだけど、その後の世界は、彼らの理想とは真逆の方向に動いた。

つまり彼らは、民主制の理想も故郷もともに失った、と考えるべきなのではないか。30年かけてその両方を喪失した彼らの虚しさを思うと、なんとも言えない心持ちになる。

天安門事件前年の1988年から中国国内は年率20%近いハイパーインフレに見舞われており、市民の経済生活もかなり混乱していただろう。

彼らは北京大学や清華大学のエリート学生だったから、周りの地縁血縁ネットワークがハイパーインフレに喘いでいたからこそ、政府に立ち向かった側面があると思う。政治的イデオロギー闘争の前に、実は困窮運動だったのではないか。

「人民解放軍」という名の軍隊が、まさか本当に市民である自分たちに銃を放つとは思っていなかったので、純粋な気持ちでデモに参加していた彼らは、銃弾の前に精神的にもズタズタに傷付いたに違いない。

民主制はこの30年で、実は共産主義と大差のないポンコツなシステムであることがはっきりしてしまったし、そもそも正義とか真実というものなど、この世界にはないのだ、というスーパーフラット化が行くところまで行ってしまった感がある。社会の木鐸面していた朝日新聞などは、そのサーキュレーションが激減しており、事実上不動産屋と化し、社員一律の給与カットなぞも相当行われているなどという噂も聞く。世の中が木鐸を必要としていない以上、木鐸面で飯も食えないのは当然のことかもしれない。

日本では、団塊親子のいわゆる「5080問題」がいよいよ顕在化して、この30年間の政財官学の無為無策がはっきりと露呈しつつある。老人の自動車ミサイルも、コドオジ、引きこもり問題も、団塊親子問題の枝葉末節バリエーションでしかない。

団塊ジュニア世代は、男子は朱子学カルト・システムから足切り、門前払いされた多くの者が非正規雇用を強いられて、引きこもりやコドオジになっているし、女子はブルマやセーラー服や身体をおじさんに売る、いわゆるブルセラ世代である。

宮台真司の『制服少女たちの選択』は1994年の本だけど、いま読み直せば既に団塊親子の擬似的友だち親子関係の絶交を喝破していたし、インターネット以前の私達は既に世界でもぶっちぎりの分断社会(島宇宙化)に生きていたこともこの時点ではっきりと指摘しており、30年前には彼にしか不可視的だった哀しい現象が、今では「負のプラットフォーム」として厳然と、クソみたいなワイドショーネタとして日々可視化されている。

制服少女たちの選択

理想も故郷も失った中国人学生運動家の失意と、団塊親子の失意は、異質だが底なしであることは同じかもしれない。