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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

立身出世の終わり

「会社」と「社会」という言葉をつくったのは福沢諭吉だけど、さすがに百年も経てば会社とか社会という当時の和魂洋才にもはや意味はなく、市場という弱いつながりで、個人として生きていくのがこれからの生きる道だとすると、いまさら会社や社会という同調や相互監視を前提とする強いつながりのなかで歯車として生きていくのは、もう心底かったるいなと思う。

福沢諭吉が生きていた頃の会社や社会という概念は何を目的としたものだったか、よく考えてみると結局のところ、立身こそが、その目的だったと思うのである。

立身ということが、明治以降の日本資本主義の一種の刺激剤だった。ある種の封建的な身分社会の中で身を立てなければ、自分の言い分も通らないし、家族も幸せにできなかった。立身こそ輝ける目標だったと思う。しかしもはや立身も輝いていない。このことは日本的経営が時代に遅れ始めているということの証拠だ。立身がただ一つ、なぜ輝いていたかと言えば、分配のシステムがなかったからだ。日本の企業社会がもし本当に公平で公正な分配システムを築いていれば、立身だけにしがみつく必要はない。(「『会社本位主義』をどう超える」奥村宏の発言から)

この本が発刊されたのは1992年のことで、もうこの時点で立身の限界が指摘されているのである。封建的な身分社会においては、立身は社会や会社というヒエラルキーに従属することによってしか開かれなかった。

しかし日本の経団連的な、ものづくりという重農主義と連続する封建身分制度は、インターネットを前提とするグローバル資本主義や脱工業化でほとんど壊れてしまった。これから立身したいなら、会社や社会という封建制度ではなく、市場というメカニズムで頭角を現す必要がある。

時間は未来から現在、現在から過去へ向かって流れているのだから、未来に存在しない、必要のないものは、‪どう考えても流れてこない。当然の理である。現代の若者が会社で偉くなることを志向していないのは、当然である。これから会社で仮に肩書きが偉くなってもほとんど立身しないからである。政党や官僚や企業や大学などの封建制度を維持するためのプロパガンダやヒエラルキーは未来にはない。なぜなら立身出世というインセンティブが働かないからである。

さっき引用した本を読むとかなり驚いたことに、1992年時点で過労死や働き過ぎや同調圧力と言った現在でも社会的な課題、日本的な経営の宿痾として指摘されていることが、30年前に完全に出尽くしているのである。未来には確実に存在しない封建システムという過去のものに、今更付き合っても徒労ではないかと思ってしまう。

日本においては立身とアルコールが密接に結びついている。立身というインセンティブが機能していないのなら、アルコールなどというただの服毒行為は、当然機能しないのである。

とある商社では会社の飲み会や接待は一次会で終わりにしようという運動がいまだにあるらしいけれど、経営層が本来言うべきは、酒と仕事は関係ないので飲み会はもうやめ、である。

呑みュニケーションが立身と結びついていた過去の過ちをたださないと、生産性は向上しない。このブログで何度も言っているけど、ホモ・サピエンスという動物は一度酒を飲んだぐらいでは決して互いを信用したりしないのである。立身のために酒を飲むことは、立身を言い訳として酒を飲むことで、そっくりそのまんま時間と金の無駄である。