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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

もはやまつりの要らない理由

人間のルールに「人を殺してはいけない」というルールはない。あるのはただ「仲間の人を殺してはいけない」だけである。

死刑や戦争の執行が法的に許されるのは殺す相手が、彼らの仲間ではないからである(日本国は戦争を禁じていながら、死刑は容認するという一貫性のない半端者なのである)。

「相手が仲間でないなら、殺してもよい」とするようになったのはなぜか。農耕文明によって定住するようになると、一定の確率で出現する無法者をなんとかして鎮圧しないと、定住が機能しなくなるからである。

人類が過酷な環境を生き延びてきた理由は、とんでもない狼藉をやらかしてしまう性向の人間がいたからこそである。滅亡か選別かという究極的な選択を生き延びるためには、乱暴なキチガイがいなければならなかった。彼らが自己保全のために、エゴイストとして一か八かのリスクをとって、種全体が生き延びることができたと考える方が自然である。我々は程度の差こそあれ狂暴なDNAを受け継いでいる。

しかし農業による定住時代になると、狂暴なタイプの思うがままにさせては社会が不安定になる。腕力や知能を駆使して収奪する人間をのさばらせば、組織集団が壊滅してしまう。法律や言葉ができたのは、法によって彼らに規制をかけるためなのだ。

もし狩猟時代ならば、めちゃくちゃなことをしでかすとんでもない人間が現れれば、集団で逃げれば済んだのである。しかし農業化してしまうと田畑を棄てて逃げられないから、法治が生まれた。つまり法とは、人類が生き延びる為に貢献した素性凶暴なタイプの人間を、法の力で封じ込めるためのものである。

定住システムには法が不可欠だが、法に雁字搦めにし過ぎるとストレスが溜まる。まつりとは、法外へ、言葉の外へ作為的に逸脱するためのきっかけなのである。ガス抜きと言い換えてもよい。

農業と工業の時代は、定住を前提とする社会だから、まつりが必要だった。工業は工場という場所に束縛されるからその点で農業からの線形な進化である。しかし脱工業化とは農業アナロジーでは語れない非線形の変化である。

従業員が同じ土地に同期しなけらばならなかった農業と工業の時代だから法治が必要で、法治が行き過ぎない為にまつりが用意されたのだ。

脱定住の野獣達が再び世界史の主役に躍り出て来ている。租税回避のGAFAなどは脱工業化時代の「住所不定人類」であって、法治の外へ出つつある存在である。彼らの入社試験は定住民選抜とは真逆の、世界中から若い高知脳人材だけを効率よく吸い上げる多人種数学選良である。

定住や法治という数千年間続いたライフスタイルが骨抜きになって来ている。法や言葉の命令が効果なしとなれば、ガス抜きのまつりなぞは丸で要らなくなる。

会社という定住地や法治システムが弱まりつつあるから、アフターファイブや休日のまつりがぜんぜん機能しなくなる。最近の20代30代が会社の飲み会(というしょぼいおまつり)に来ないのは、定住と法治が骨抜きになって無意味化しているからである。

まつりだまつりだとみんなが酒を飲んで盛り上がっていた時代が根本的に終わりつつある。