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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

「教育」のコストとリスク

先に生きてるだけの「先生」が後進を教え導く「教育」の社会的なコストがあまりにも大きすぎるのではないか。もう全ての「教育」なんて投げ出して、必要とする人が自発的に学ぶことを容易にする環境をこそ作るべきだ。

義務教育にしろ高等教育にしろ従業員教育にしろ、「教育」というものは必ず上から下へ、何らかの不愉快な強制を伴うもので、その根底は権力そのものである。簡単に言えば、「教育」とは全て権力行使なのである。昔は実際、武力や暴力を伴うことが珍しくなかったし、武力や暴力を使わないのであれば、権威や脅迫が必要とされた。

ヒエラルキーが機能していた冷戦期までならまだ「教育」もペイしたのだろうが、もはやあらゆる「教育」行為は、パワーハラスメントのリスクを生来的に持っている。

教える側にしてみれば、権力を行使して憎まれたり、時には訴えられたりするリスクと隣り合わせだし、教わる側にしても、時間を費やすにはあまりにも価値のないコンテンツのお仕着せにしか思えない。

つまり双方にとって「教育」とは多大なコストを伴うものになっているのだ。教師が放課後に部活の顧問をやるなんてハイリスク・ゼロリターン以外の何者でもないし、会社で部下を指導するなんてのも、単なる無駄骨としか思えない。だから己っちは部下の教育や指導を‪端から‬いっさいしない。

つまり、ヒエラルキーというシステムが終わってしまったので、「教育」という仕組みは全てオワコンなのである。

「上下の学習関係」は既に完璧に終わっている。それを無理くり押し切ろうとすれば、必ずリスキーなトラブルを引き起こしてしまう。

我々が作らなければならないのは、左右のネットワークによる学習システムに他ならない。例えば「読書」とは、左右の学習システムである。YouTubeの映像で学ぶなんてのも、左右の学習関係である。

この世には、もう誰かに「上から」教わることも、「下の」誰かに教えることもない。あるべきはただ「いつでも学ぼうと思えば学べる分散型のネットワーク」だけなのである。

だから「教育」は死語だし、もう要らない。

ちなみに、基本的に僕は年下を尊敬している。アイツらときたら、今の僕らを見て「これはやめておこう」「これはマネしよう」と取捨選択して生きているわけだから、いつの時代も若い奴はスゴイよ。とても勝てる相手じゃないし、支配できると思ったら大間違い。(西野亮廣「魔法のコンパス」)