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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

儀礼の虜

仕事帰りに銭湯サウナで水中クンバカ。まっぱだかで言葉の要らない世界は、喩えるならば、眠っている時間と似ている。

みんな石鹸使い過ぎではないか。これも小さな洗脳。石鹸とシャンプーを使い分けるのもマーケティングに過ぎない。体の脂はお湯と汗で殆ど溶けて流れてしまう。

風呂から上がってもビールとか丸で飲みたくなくなった。オウム真理教はLSDを「キリスト」、覚醒剤を「仏陀」と呼んで、宗教的神秘体験をドラッグのチカラで捏造していた。

日本最大のカルトである朱子学カルトにとってのイニシエーション・ドラッグは、もちろんアルコールである。生真面目な頑張り屋さんほど、儀礼を通じてアルコールに絡め取られてしまう。

私がまだアルコールを飲んでいた頃の、とあるおでん屋でのシーンを思い出す。

私はひとりでちびちび酒を飲んでいた。

コの字カウンター対角線に生真面目そうなサラリーマン三人の客がいた。最初は楽しそうに飲んでいたのだが、気付いた時には真ん中の上司らしき人物がこんこんと何かを熱心に語り続けていた。皆酔っている。部下は子役の下手な芝居みたいな神妙さでその語りに聞き入っている。

しまいには、三人とも涙ながらに何かを熱く語っていた。そのおでん屋の近くには精密機器大企業の本社があったから、その関係者だったのだろうか。

電車がなくなる時間まで何時間も上司と部下で語り合って、最後に全員が泣く──今の私には、このシーンが面妖な宗教的儀式に思える。熱意も失意も結束も、「キリスト」や「仏陀」と同類の単なるアルコールによる作用なのだ。

人間は結束しているから儀礼を執り行うのではない。儀礼をすることではじめて結束する生き物だ。アルコールは、その儀礼を幻覚作用で盛り立てる。

結束で得をする人間に、ドラッグで操られているだけだ。

会社というと、恰も合理的なものに思えるけど、結束を駆動している実体はかなりのオカルトである。学問としてのマネジメントの原型だって、キリスト教の維持・発展ノウハウでしかない。