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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

スマホを持つ目的

iPhone持って、あれが見れる、レストランがすぐみつけられる、ウィキペディアでこれが調べられるとか言ってるけど、それだけのことでしょう。その時間がラクだから、ドストエフスキーを読む時間が減るんだよ。(保坂和志『考える練習』)

これを読んで「それならスマホはドストエフスキーを読むために使おう」と、偏狭人の私は考えた。

『地下室の手記』を、iPhone Xで撮り溜めして独り魔がさした時間にドストエフスキーを読むのである。iPhone Xのカメラは恐ろしく高解像で、恰も私の神が背後でドストエフスキーのページを瞬時に憶えてくれ、口移しでこの私に囁いてくれるかの如き克明さであり、画面も大きいから紙の本を手で繰るのと変わらぬ軽快さで読める。

これはもう、「地下室。」とやらを掌のなかに持ち歩いているようなものだと思い至る。も早、わざわざ黴臭い地下室になぞ隠れる必要もなく、何処へでも心の蔭を持ち歩ける。

私は、道理で街を歩きながら掌にじっと見入る「心ここにあらず。」の人間達の表情が、死人色なのか、戦慄とともにその瞬時に理解できた。彼らはスマホに夢中になっているのではなく、ただ心の地下室で、おのれの生き死にだけに、無我夢中になっていたのだ。

私は歩きながらスマホにのめり込む彼らのことを、私の心の地下室の中でだけ、「歩きスマんこ。」と呼ぶことにした。「歩き」ながら「スマ」ホに魂を抜かれているち「んこ」やま「んこ」──とは言え「歩きスマんこ。」は女が多いが──の略である。

「歩きスマんこ。」は、自らの掌にスマホの画面を移植することに成功したホモ・サピエンスである。私は、スマホと言う心の地下室で、ドストエフスキーを読み、文章は手で書くか、Siriで電子化する。

スマホなぞ、所詮その程度の役にしか立たない、つまらぬ利器と考えている。