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徒手空拳日記

持たざる移動を追い求める手ぶら評論家。 手ぶらを、いつか当たり前のウォーク・スタイルにする。 人の行く裏に道あり花の山(利久)

上善にアルコールなし

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水は高いところから低いところへ流れるけれど、アルコールは決して高みにはなく、常に低いところにとどまる。

日本では、子にアルコールを最初に与えるのは、アルコール奴隷のクソ親であることが多い。クソ親は日本の真面目ファシズムにどっぷり浸かり、人生は辛く苦しいと思い込まされ、酒で憂さを晴らすのは当たり前だと思っている。

これは生き方ではなく死に方でしかなく既に半殺しの体、我が子をも死に引きずり込む愚である。

「高み」に居ながらアルコールに毒されている、例えば世間で一流と言われている大学や会社組織の伝統的乱痴気儀礼とか、藝術家が無頼ぶって酒ばかり飲んでいるとかは、単に彼らが日本という限られた市場で、しかも過去において過剰評価されていただけで、アルコールと統治が渾然一体となっている組織は生産性が極度に低いので早晩市場から駆逐されるし、酔いどれ藝術家も言わば麻薬ドーピングで作品を作り続けている訳で、本来繊細な頭脳と感覚が絶対に必要な藝術をナメており、世界の藝術レベルには到底、敵わない。己っちは、酒を正当化する「一流」は、全部インチキだと見抜いている。

高いところには一滴のアルコールもないのが真理で、それが水とアルコールの差異の根幹である。

逆にアルコールがあるということは、低いことの動かない証拠なのだ。

老子は「上善は水の如し」と言ったが、これを勝手に日本酒の商標にしてしまったり、酒を「水のようにうまい」と礼賛するのは、半殺し日本人の愚かさゆえの悲しみである。

上善にアルコールなぞ存在しないことに無知な人々は、嗤われ、信頼を失い、競争に負けていく。