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徒手空拳日記

持たざる移動を追い求める手ぶら評論家。 手ぶらを、いつか当たり前のウォーク・スタイルにする。 人の行く裏に道あり花の山(利久)

又吉直樹『劇場』の感想

人生を春夏秋冬に割り振り、それぞれに青朱白玄の色をつけて、この小説をやれ春ですね、青いですねと、線引きしてしまう人が多いだろうと予想するが、己っちはそう言う古臭い達観をする奴のことが心底嫌いなので、いっさい書かない。

青春を辛くて不恰好なものだとして青さやほろ苦さを細目で尊ぶクソ老人の朱子学カルト思想は、唾棄すべきなのである。

この小説を読んで己っちが思ったのは、この前観た『ラ・ラ・ランド』とも通じるのだけれど、これだけコネクテッドな世界におけるアートって何なのか? と言うことに尽きる。

10000年くらいの間に既に人類に蓄積されているアートですら、もはやすべてを味わい尽くすことができないのに、我々はなんでまだゼロから新しいアートを立ち上げようと、もがくのだろうか。

文字というタダで使えるものから小説というアートを作るのも、そこらへんの土をこねて焼いて陶器というアートを作るのも、タダ同然の無名俳優に喋らせ動かして演劇を作るのも、周りからゴミクズ呼ばわりされている駆け出しの芸人さんが演芸場で漫才するのも、ほとんど原価ゼロの無価値なものを、多少でも値段のつくものにすることであって、コネクテッドな現代社会における難しさとかそもそもの意義について考えてしまう。

アートなんて、もはやさっぱり買い手のつかない凡百の無価値なものか、とてつもなくべらぼうな価値のつくものに二極化して来ている訳で、かつての世界がコネクトされてない冷戦期にまかり通っていた「見巧者だけが価値のわかる狭いアート」は、完全に消滅している。

文壇も画壇も俳壇も、価値をオーソライズする機能の寡占を失いつつある。別に壇に限ったことではなく、芸能人だって広告のコピーライティングだって漫画だって、家電製品だって自動車だって、かつての壇みたいなものの影響力はダダ下がりである。

ゼロのものをとてつもない価値のあるものに引き上げようとする時に、人間はとにかくそのことに没頭しようとするのだけれど、その際に、うすのろで邪魔くさくなるのが、日々の生活というもの。

どんなにアートに没入したとしても、糞尿と体液の詰まった肉体に最低限の栄養を通わせ、クソをして横になって寝ることはゼロにできないので、それをどうするか? が大問題である。

それから最も問題なのは、アートと政治のぶつかり合いだ。塙谷雄高は、

「政治の本質はこの言葉につきる『奴は敵だ、奴を殺せ』」

と言ったけれど、これはまさにそうで、己っちの理解では、アートとは、二世三世ばかりの愚かな政治屋さんよりもずっと先に時代を占領する政治勢力のことだから、アートを突き詰めようとすると、自分のアートを脅かす存在を嫉妬したり憎んだりして端的には「殺せ」と思ってしまう。

この小説に描かれているのは、今日のコネクテッドな世界で、ゼロからイチを作り出すことの底知れぬ無謀さと、政治という、アートに憑依する悪魔的なものによって、愛するものさえ排除しようとしてしまう人間の本性ではないか、と思うのである。だから別に、これは青くもないし春でもない。もっとずっと普遍的なことだ。

無価値な人間が虚無から何か値の付くものを生み出すことの、気の遠くなる現代の道程が克明に記されている。

映画ラ・ラ・ランド〜La La Landの感想 - 徒手空拳日記