kindle, 手ぶら, iPhone, 禁酒,ウォーキング,禁煙,断酒,ダイエット

徒手空拳日記

持たざる移動を追い求める手ぶら評論家。 手ぶらを、いつか当たり前のウォーク・スタイルにする。 人の行く裏に道あり花の山(利久)

孤絶酒や落伍酒をもてはやすな

日本人が美食と勘違いしている真の目的は酒の服用であり、食べ物にかこつけて実は身体がアルコールを渇望しているだけで、実態はアルコール依存の言い訳である。

仲間とわいわいやることも、酒を飲む口実に悪用されている。酒なしでわいわいできない関係性は、なきがごときものに過ぎない。

アルコールの広告のほとんどは、飲酒を、美食やわいわいと強固に結びつけようとする洗脳である。

己っちが最近危機感を強めるのは、美食やわいわいに止まらない危険なスタイルを、飲酒とかこつけて美化、肯定する風潮である。

孤絶酒や落伍酒を肯定するマス情報発信が増えているのではないか。

街案内のテレビ番組ともなれば、「せんべろ」「ちょい飲み」「昼から飲める」と言ったお店が、さも大衆に大人気のように平然と取り扱われる。孤絶や落伍をアルコールと結びつけて肯定している。

しかし、である。そもそも「せんべろ」という言葉を生み出した中島らも氏は、重度のアルコール依存症に苦しみ、最期は酔って階段から転倒して亡くなったのだし、「朝から昼から飲める店」に出てくる名もなき「大衆」は、本来テレビに映してはならない多量飲酒者である。

「朝から、昼から飲める」ことや「独りで酒場放浪」が、大人の道楽だと肯定するコンテクストは昔はなかった。昔なら恥ずかしくて、昼酒や独り酒なんて、表立って言えなかった。

いつの間に、小汚い場末酒場で昼から酒を呷ることが、「生き方」のように取り扱われるようになった。

「巡礼」なる宗教的言葉と粗末な酒場を結び付け、孤絶や落伍の果てにアルコールを飲むことが恰も無頼でかっこいいことのように扇動するようになりつつある。

全ての麻薬は、最初はコミュニケーションとして複数間で打ち始めるのだが、はまってくると、こそこそ独りとなり、いつでも簡単に落伍して、キメたくなる。これが麻薬に共通するおとろしい本質である。

酒は紛れもなく麻薬であるから、落伍の果てに独りで飲むようになると、多量飲酒の危険度が高まる。

独り酒や、早い時間からドロップアウトする逃げ酒を、美学や生き方と結びつける大衆操作に、危機を覚える。

独りでシャブを打つこと、昼からシャブをキメることをかっこいいスタイルとして喧伝してはならないように、独り酒やドロップアウト酒を自由や美学と結びつけて情報発信してはならない。これは単なる「死に方」の奨励である。

情報発信を担うエリートどもが、ミイラ取りがミイラになり、実は酒にやられてしまっているのではないか。

情報とは、本質的には、命令なのである。