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徒手空拳日記

持たざる移動を追い求める手ぶら評論家。 手ぶらを、いつか当たり前のウォーク・スタイルにする。 人の行く裏に道あり花の山(利久)

啄木、かっこ良すぎる

石川啄木


ドナルド・キーンの「石川啄木」を、Kindleで、じっくり味わうように読んでいるけれど、啄木のアーティストとしての素性になんともまあ、痺れること痺れること。

2011年に己っちが出向いた穂村弘氏の講演会で、彼がこんなことを言っていた。

共感とはなにか? 「あるある」では共感にならぬ。sympathyにはwonderが必要。真の共感を得るためには、意外性という驚異をしれっと入れる。驚異なしに共感なし、を知り抜いている歌人は啄木。 

いまの日本社会の表現は、驚異のない「あるある」しかないかも知れないなと己っちは思う。

穂村弘氏が例として挙げたのは、

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく

であった。啄木は、停車場(上野駅)の人ごみのなかには、本当は訛りを聴きにいっていないのではないか、でも「そを聴きにゆく」と言い切ってしまうところに、驚異のある共感が宿るのだという趣旨であったと記憶している。

この本は、彼の日記を詳細に解読しているのだが、家族と狭い家に住んで、創作ができないことをボヤいてこんなことを言っている。

天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり

自分で自分を天才だと信じている。

啄木が凄いのは、田舎者のコンプレックスがなんにもないところである。そして田舎を出て北海道を放浪するなかで、土地土地の民度の低さを、DISりまくっているのが面白い。小樽のひとびとを小馬鹿にしたうた。

かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ

啄木の生きた時代にもしツイッターがあったら、毒舌ツイートの横溢が期待できたかもしれない。

今とは違ってイケイケの明治時代は、さほど朱子学カルトも強くなかったのだろう。あの頃を生きてみたかった。