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徒手空拳日記

持たざる移動を追い求める手ぶら評論家。 手ぶらを、いつか当たり前のウォーク・スタイルにする。 人の行く裏に道あり花の山(利久)

詩歌と朱子学カルトはトレードオフの関係なのではないか?

洗礼ダイアリー


 文月悠光「洗礼ダイアリー」読了。

己っちは穂村弘氏を私淑しており、彼は国語の偏差値が絶対80以上あると思う。

いまの日本文学は、漢文と詩歌を置き忘れてしまっていることが、最大のまずいところだと己っちは、勝手に思っている。

詩歌は、身軽なのにチカラに満ちることがあって、己っちが手ぶらで生きることに歓びを感じるのとどこかで近い。

詩歌が衰退すると日本人は視野狭窄に陥る。

日本が成長していた頃は詩歌に存在感があった。『サラダ記念日』は1987年発売、日本はいけいけだった。分け前が多い時代は詩歌も元気だ。

分配資源が乏しくなると、詩歌の替わりに朱子学が唱えられ、ひとの心は、腐った「トンデモ儒学」一色に塗り潰されてしまう。太平洋戦争が負けそうになった頃も、経済的敗色が濃いいまも。

若手の女性詩人(バブルが弾けた1991年生れ)エセーから読み取れるのは、朱子学カルト一色に塗り潰された世相の息苦しさである。

バイト先「見るからに体育会系の」男性社員との噛み合わない会話。「書くことで食べていけるようになれればいいな」という彼女に、男性社員は「へえ? いつか出版社に入れるといいね」と告げる。

また20代後半の編集者に食事に誘われ大卒後の進路に悩む彼女に、デート中の彼が彼女に向けて自信たっぷり宣う次の言葉なぞに朱子学カルト蔓延を感じてしまう。

社会に出よう。きちんと働いたことのない人が書いたものなんて、どんなに言葉が良くても、心に響かないよ。

分配が減って、でも生きていかなきゃならない時代には、朱子学カルトが幅を効かせる。「社会人」が何よりも重んじられる空気は重く淀んでいる。今を生きる若い女性は、朱子学カルト勢力からは、「凜としたがんばり屋さんであれ」と強制されているように己っちは思う。「凜とした」も「がんばり屋さん」も身の毛がよだつ言葉だ。

例えば東京建物 企業CM「新人の心得」篇 30秒 - YouTubeは朱子学カルトの心象風景をよく表している。

詩人には現代のいきぐるしさが見えるが、政商や豪商に洗脳されてしまっているパンピーには、カルト思想がぜんぜん見えない。

この本は朱子学カルトの「洗礼」を浴びている詩人の言葉ではないか。