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徒手空拳日記

人の行く裏に道あり花の山

公共バスの近未来

都市部の公共バス、規模縮小の真因は、運転手の不足との記事を読んだ。都バスは私にとっては、貴重な移動手段であり、読書ルームであり、コワーキングスペースであり、映画館。

始点から終点まで乗り放題パスで往復すれば、ちょうどよい時間を有意義に過ごせる。夏は涼しく、地下鉄に比べて圧倒的に乗り降りが楽である。適当に都バスを乗り継いで、見知らぬバス停で降りて、散歩するのもよい暇つぶし。

運転手不足となると「自動運転はよ」となるだろうけど、都バスに乗ってみるとすぐわかるのは、都心部のバスの運転はかなり難易度が高いということ。路駐は多いし、自転車もバイクも多い。恐らく自動運転にとって最も課題の多いのが都心部の平日昼の運転だと思う。

自動運転の普及まで時間がかかるのだとすれば、都バスに必要なのは、GPSやスマホと連動したITの充実だと思う。都バスに乗りたい人の動きをビッグデータで解析して、路線や便数をもっと最適化するとか、地下鉄との乗り合わせのリアルタイム情報提供を充実するとか、幹線部に連結シャトルや追尾自動運転車を運行するとか、色々なやり方がある気がする。

都市部の公共バスは、社会が高齢化すればするほど重要なライフラインになるはず。

あとは利権擁護や不作為をやめて、UBER導入を真剣に考えて欲しい。東京のタクシーは世界でも割高だし、その割に道を知らない運転手が多過ぎる。

私の場合、都バスは昼間の暇っつぷし空間なので、今くらいのまったりした状態が一番いい。例えばいまの京都のバスみたいにいつでも満杯だと、困ってしまう。

 

政治屋ゴー・ホーム

安倍チルドレンの衆院議員が肺がん患者にヤジ→がん財団の理事を辞任のニュースを見て思ったのは、インタネットは政治屋をそのうち殲滅するなということ。

はっきり言って、こいつに限らず、もはや政治屋の面なんて、丸で見たくないのである。肺がん患者にヤジった自民党の穴見陽一衆院議員(大分1区)は、元々はファミレス経営者であり、たばこ関連団体からの献金も認められる。

喫煙規制への反対は出身母体利権そのものであり、その立場からストレートなヤジを衆院の厚労委員会で証言しているがん患者に飛ばすという浅はかさ。

【追記あり】肺がん患者に暴言を何度も吐いた大分一区の自民党の穴見陽一議員はこういう言い訳をするだろうと先回りして言っとく | More Access! More Fun!

こういう政治屋が跳梁跋扈して、日本の外食店はいつまでもたばこ臭いまんまなのである。

日本の政治屋は、日米合同委員会にも参加できない「米軍の走狗(官僚)の走狗」に過ぎず、単なるゴロツキ。進駐軍の運転手みたいな存在である。国民の代表を装う代議士ならぬ策士ばかり。本当に要らない。政治屋ゴーホーム。

民主制にしろ政治にしろ、もう要らない時代になりつつあり、政治で飯を食っている政治屋なんぞ、もう顔も見たくないというのが人々の素直な感情なのではないか。

民主制で選んだ政治屋よりも、習近平や天皇の方が人間としてまともなことから見ても、西欧の民主制なぞ単なるギロチン文化、クソな欧米のローカルシステムでしかないのである。

日本の政治屋に税金を投入(国会議員一人につき2億円の税金が投入されている)するくらいなら、GoogleやAmazonに頑張ってもらった方が百万倍マシ、政治屋という身分そのものがはやくなくなってほしい。

競争は負け犬がするもの

これはピーター・ティールの言葉。彼はエリートの出世競争に嫌気がさして、実業家になった。

私に言わせれば、朱子学カルトもまた、負け犬の競争である。幼稚園から大学生まで、同じ年に生まれた人間を寄せ集めて、「なぜ」と「だから」の発話を封じ込める教育をひたすら続ける。会社に入ればまた「同期」で競い合い、定年退職まで線形の人生が続く。

これはとてつもなくクレイジーな社会設計ではないか。元気さと明るさを競い合い、ちょっぴりエッチなノリの良さを競い合い、とことん謙虚で無力・無能であることを競い合う。

気づけば、競争を勝ち抜いた「負け犬」が、経団連という同質な集団を形成している。

経団連、この恐るべき同質集団 編集委員 西條都夫 :日本経済新聞

負け犬が競争に明け暮れているのを尻目に、競争しない日々を求め続けているのが、私。

「ま、いいか」「だからどうした」「ひとそれぞれ」の三語をモットーに、友と敵の識別を一切しない。競争せざるを得ないような強いつながりを棄てている。私にとっては、アルコールを飲むことも、負け犬の競争にしか思えなくなりつつある。あんな毒を飲み下して、バカな奴らだなと思ってしまう。

「人の行く裏に道あり花の山」である。

体力と気力を競争で消耗せず、温存したエネルギーを競争のないブルーオーシャンで存分に使う。

戦略とは、そもそも競争を避ける為にあるのだ。同質な競争に明け暮れる人生は、愚か者の負け犬でしかないのだ。

 

 

 

 

朱子学カルトが禁ずる2語

オフィスのエレベータに乗ってると、殊勝なフリしてエレベータの開ボタンを押し続け、自発的にエレボやエレガをやる奴に、殺意を覚える。邪魔だし、つまらぬ点数稼ぎのせいでエレベータの輸送効率が落ち、結局は全体が損をするという、朱子学カルトの本質を感じるからだ。

朱子学カルト社会で徹底的に使用が禁じられて、もはや彼らの辞書にすら載ってない言葉がある。

「なぜ?」と「で?」である。原則としてエレボやエレガをすすんで引き受ける奴らは、目上の者に向かって軽々に「なぜですか」ときいてはならない。即刻、反逆的とみなされる。

目上の要領を得ないご高説に「で、なんなんですか」とか「で、どうすればいいんですか」というのも、きいてはならない。これも目上の人間を否定することなので、場が凍りつく。

「なぜ」と「で」を発想そのものから消すのが、日本国の義務教育だし、空気を読むとは殆どの場合、「なぜ」「で」を呑み込むことに他ならない。

「なぜ」「で」はロジカル・シンキングの2大疑問詞である。考える力とは、「なぜ Why?」「で So what?」の力だと言い換えても過言ではない。

だからこそ、朱子学カルト社会では、この2語を徹底的に禁止するのである。科学を禁じているのである。

第二次世界大戦では、日本人はだいたい300万人死んでいて、そのうちの200万人は、敗戦までの最後の1年間に死んだとされているけれど、敗色濃厚になってもとにかく「なぜ」と「で」が禁じられたからだと思う。

ブラック企業は、社会から叩かれると真逆の方向に「ホワイトアウト」してしまうことが得てしてあるけど、それはだいたいの場合、マネジメントも現場も「なぜ」と「で」そのものを忘れてしまっているからであることが多い。

 

不作為だらけの国で

鉄道の回数券なんて、もう本当は全然電子化できるはずなのに、いまだに紙の切符のまんま。

都営まるごと乗車券も、いまだに磁気カード。オレンジカードかよ。一方で都バスの一日乗車券だけはなぜかSuicaに格納できる。

技術的にはあらゆる乗車券サービスは非接触式ICカードに出来るのに、やろうとしない。日本はなんか、そういう不作為に溢れている気がする。

カーシェアも、もはや中国では、既に駐車場から乗り始めたい場所までは、自動運転で来るサービスが始まっている。技術的には出来るのにやろうとしない。やらない理由は幾らでも思いつく。やると失敗する。怒られることを何よりも恐れる。日本の社会人はとにかく怒られないこと第一だから、ありとあらゆる基本が不作為になってくる。不作為を競い合うのが仕事になっている。民泊もライドシェアも自動運転もダイナミック・プライシングもフィンテックも、全部、気配を気にして不作為祭り。

だから、やると決めてリスクを取り本当にやる人は、とても少ない。やると決めて動き出せばそれだけで先んじることができる。「働き方改革」なんて要するに不作為祭りだから、私などは自分の生き方を変えてしまったので完全スルー。非合理的な仕事は、争うことなくひたすらスルーする。スルーして空いた時間は本当に必要な仕事に再配分する。本当に必要な仕事とは、課題設定と解決方法を考えて、作為的に行動してしまうことに尽きる。

アルコールと仕事は完全に無関係なので、儀礼会食はすべてやんわりと断ってしまう。そうこうしているうちに誘われなくなるからますます自由になる。

本当の支えになるものは自分自身の考え方しかない。(村上龍)